物語を狩る種族(The Story Hunters)

読んだ本の感想を書いているブログです

ウンベルト・エーコ死去のニュースに際して(あと『エーコの文学講義』のすすめ)

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 ウンベルト・エーコが亡くなり、個人的には、『論文作法』『エーコの文学講義』『バウドリーノ』を読んでいたことを思い出しました。

 中でも『エーコの文学講義』(あるいは『小説の森散策』)はとくに読んでほしい一冊で、すこぶる面白いのです。

 この本では、まずはじめに、エーコはモデル読者とモデル作者という概念について語るのです。小説を適切に読むことはおそらく難しいことで、簡単に理解できるものもあれば、理解することが困難なものもあります。理解できたとしても、その愉しみどころがイマイチ分からないということもあり。単純な話だ、単純な話……、でも何かひっかかるぞと感じることもあり。そのひっかかりを無視していいものだろうか、と悩める読者のためにエーコ先生が講義を行ってくれます。必ずしも悩みが解消されるとは限りませんが。 

 ごく単純化して述べると、作者は読者にある感情を呼び起こしたいと考えているのです。その感情がなんであれ、作者は読者にそう感じさせるため、作品の中で様々な工夫をしています。ただ時にはそれをぶち壊しにするような感情を読者自身で内在していることもあるので、難しいものです。とにかく作者のサインを見逃さないこと。それが読者に、エーコのいう「モデル読者」に求められていることなんだとか。とくに、第二レベルのモデル読者に。

 誰かに、ぜひとも力をいれて読んでほしいところがこの本にはあります。フランスの作家ネルヴァル(あるいはラブリュニー)の、『シルヴィー』という作品における「語り」についての次の文章で、これがとにかく素晴らしい。

この時間と空間がもつれ合い錯綜する物語は、ここにきて声たちまでが入り乱れてしまったようにみえます。ですがこの混乱は実に見事に組織されていて、気づかないうちに――いえ、こうしてわたしたちが現に気づいているのですから、ほとんどと言うべきでしょうか――効果をもたらすのです。ですから混乱ではなく、むしろ透徹した展望の瞬間なのです。モデル作者・語り手・読者という三者から成る物語の三位一体が一堂に会した物語の「顕現」の瞬間だというべきなのです。(『エーコの文学講義』(1996年)和田忠彦訳、p.38)

 この文章は『シルヴィー』第三章のあるくだりについてエーコが語っている文章です。はっきり言って、この文章を読んだとき何もかもが明かされたような感触、ある一つの文章のもたらす効果についてのエーコの語りが最高潮に至り、私は二重に興奮しました。このような文章が序盤で出てくるとは! さらにエーコは『シルヴィー』について、その物語の構成と「物語内時間」との関係をダイヤグラムにして表わしています。私がこの本から学んだことの一つは、物語を図にして理解しようとすることです。

 第三章以降で、エーコは文学のもつ「速度」、前任者カルヴィーノの語らなかった道草について様々な例を示しながら語ったり、読者と作者の間にある「虚構の約束」、暗黙の了解について語ってくれます。そして、やはり最後に、「私たちがなぜ虚構を求めるのか」について一つの答えを提示してくれるのです。

 単純に言えば、人は物事を理解するために物語の形式を使うということを。

けれどもし、物語的行為がこれほどわたしたちの日常生活と密接に関連しているとしたら、人生を小説のように解釈したり、現実を解釈する際に虚構の要素を導入してしまうというような事態が起こる可能性はないでしょうか?(『エーコの文学講義』(1996年)和田忠彦訳、p.191)

 それからエーコは、テンプル騎士団、薔薇十字団、フリーメーソンにまつわる、虚構が出典となった出来事を紹介するのです。つまり、小説が現実の人生を侵食するケースを。ここは、『フーコーの振り子』だったり、『プラハの墓地』などの小説作品にも表れている、エーコの問題意識なのでしょう。

 そして最後に、エーコプラネタリウムを見たときの、ごく個人的な体験について語ってくれます。ここが非常に感動的な文章で、読者をただで返しはしない、作者のサービス精神が発揮されています。誰もが、自分にとって最高に美しい物語を追い求めて、沢山の本を読んだり、映画を見たり、音楽を聞いたり、スポーツやゲームをしているのかもしれません。ある一人の読者はその物語を見出した瞬間、死んでもいいという欲望、死ぬべきではないかという感覚を抱くのかもしれません。そして残酷にも、まだ現実に居ることに気付くこともありますが、それはそれ、物語は終わるまで、とにかく終わるまでの間は続くというだけの話なんでしょう。

 さらなる新作が書かれないというのは、それだけで一つの悲しい事実ではありますが、冒頭のニュースなどでウンベルト・エーコの新しい読者が増えるのならば、それだけで一つの喜ばしい事実だと思います。そういうことにしておきましょう。

2015年に読んだ本

 年も明けたので去年のおさらいを。面白かったものもそれほどでもなかったものも。去年はSF小説ばっかり読んでました。

 今年は瀬名秀明デカルトの密室』とか、サミュエル・R・ディレイニー『バベル-17』とか、ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』とか、チャールズ・ディケンズ二都物語とか、ジーン・ウルフ新しい太陽の書」シリーズとか、古野まほろ『天帝のはしたなき果実』とか、青崎有吾『図書館の殺人』とか、乙一ほか『メアリー・スーを殺して』とか、A.ブラックウッド『ブラックウッド傑作選』とか、クライヴ・バーカー『ミッドナイト・ミートトレイン』とか、ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーンとかを読みたいと思います。

 

まずは2015年のベスト5冊

殊能将之殊能将之 読書日記 2000-2009』

長谷敏司『あなたのための物語』

山本弘『アイの物語』

ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』

サミュエル・R・ディレイニー『ドリフトグラス』

 どれも素晴らしい作品なので、まだ読んでいない人は一生に一度でよいので読んでいただけたら著者も出版社もついでに私も喜ぶと思います。

 

いろいろ

 ジェフ・ニコルスン『装飾庭園殺人事件』は「本格ミステリかな?」と思って読んだら罠に掛けられた一冊でした。あとは何も言うまい。

 

 積読だった日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー」もとうとう読了。長年にわたり日本SFを読んできた方には既に読んだことのある作品ばかりかもしれませんが、最近SFを読み出した私のような読者にはたまらないアンソロジーでした。中でも、石原藤夫「ハイウェイ惑星」、荒巻義雄「大いなる正午」、小松左京「ゴルディアスの結び目」、大原まり子アルザスの天使猫」、中井紀夫「見果てぬ風」、森岡浩之「夢の樹が接げたなら」、小林泰三「海を見る人」、北野勇作「かめさん」、飛浩隆「自生の夢」、瀬名秀明きみに読む物語」が特に「読めて良かった!」と感じた10作。

 

 もっと! もっと! 昔の名短篇を読めるアンソロジーを! という私の希望を叶えてくれたのが筒井康隆編の「70年代日本SFベスト集成」ちくま文庫から順調に刊行されて嬉しい限りでした。

 

 『ぼくの、マシン ゼロ年代日本SFベスト集成〈S〉』『逃げゆく物語の話 ゼロ年代日本SFベスト集成〈F〉』も、ずっと積んであったのを読み終わりました。小川一水「幸せになる箱庭」はストレートなSFで哲学的な話題を扱っており非常に好みな作品。どうでもいいことですが、Amazon電子書籍セールで小川一水の短篇集を3冊買いました。やったぜ。飛浩隆「ラギッド・ガール」も大変面白かったので「廃園の天使」シリーズの文庫2冊買いました。『空の園丁』が待ち遠しい……。ついでに言うと平山先生の『ボリビアの猿』も待ってます。乙一「陽だまりの詩」は再読、今でも大好きな作品。石黒達昌冬至草」は地味ながら力強い物語で好み。山本弘「闇が落ちる前に、もう一度」もSFならではのハッタリを利かせつつ、哲学的で馴染みやすく面白かったです。

 

 中村航中田永一『僕は小説が書けない』は小説を書く側の視点が興味深く読めましたし、えらく読みやすいのが良かったです。ただ個人的にはもっと驚きが欲しいところ。

 

 実話怪談系では、黒木あるじ『無残百物語 ておくれ』松村進吉『「超」怖い話 乙』が面白かったです。ちょっと不気味だね程度の話からマジで嫌なレベルの話まで、コントラストがあり。著者による話の伝え方のうまさもあるのかもしれません。

 

 中田永一『私は存在が空気』は恋愛成分薄めでSF(すこし・ふしぎ)な恋愛小説集。少年少女が主役なので読みやすいものの物足りず。「少年ジャンパー」が一番好き。

 

 文春文庫の『厭な物語』はすごく面白いコンセプトのアンソロジーで、どの短篇も印象に残るものでした。フラナリー・オコナー「善人はそういない」は『ニュー・ミステリ』というアンソロジーでも読んだことがあるので再読ですが、やはり素晴らしい作品。ジョー・R・ランズデールの「ナイト・オブ・ホラー・ショウ」は読んでいて平山夢明の作品に通ずる悪趣味さと理性があるように感じました。

 

 米澤穂信『満願』は総じて完成度の高い短篇集。手堅いぶんミステリ的な衝撃度は弱いとも感じましたが、いずれの短編も人間の悪意や業を描くという点で共通しており、それが物語としての強みを持っています。

 

 ケン・リュウ『紙の動物園』も安定して面白かった短篇集。選ぶのが難しいですが、「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」「円弧」「良い狩りを」が個人的ベストの3作です。ツイッターをやってないので販促キャンペーンには参加できず残念。

 

 ウィリアム・トレヴァー『恋と夏』は主人公の初恋のみずみずしさがほのかに明るいものの、それよりも周囲の登場人物たちの哀切が強く印象に残りました。あと雰囲気のある文章が良いものなのです。

 

 アン・レッキー『叛逆航路』は目を見張るような真新しさがあるようには思えないものの、ややこしい作品世界に、ひと癖ある登場人物たちが楽しい一冊。個人的には復讐物語であるというところもポイント高かったです。

 

最後におまけ、2015年に読んだ個人的・短篇ベスト10(順不同)

 スタニスワフ・レム「航星日記・第二十一回の旅」(『短篇ベスト10』所収) そんなにエンターテイメントしているわけではありませんが、SFの過剰さとハッタリ、知性で殴るみたいなところが良かったです。

 サミュエル・R・ディレイニー「エンパイア・スター」(『ドリフトグラス』所収) たぶん著者の力の抜け具合が良い方向に働いた傑作。とにかく楽しめました。次は『バベル-17』を読もう。

 ジャック・ヴァンス「天界の眼」(『不死鳥の剣』所収) くすりと笑えるファンタジーです。個人的事情により落ち込んでいた気分が少し前向きに。国書刊行会でヴァンスの新刊を出してくれると嬉しいのですが……。

 ジーン・ウルフフォーレセン」(『ジーン・ウルフの記念日の本』所収) 不条理で不気味な感じが大変よろしい作品です。短篇集自体も、まだ読み切っていませんが面白い。

 ケン・リュウ「良い狩りを」(『紙の動物園』所収) ボーイ・ミーツ・ガールでそこに着地しますか、というツイストが心地いい作品。どんでん返し、というよりもピタリとはまる結末が素晴らしい。

 山本弘「詩音が来た日」(『アイの物語』所収) 短篇集全体の趣向を引き締めるという点で表題作も素晴らしいけれど、短篇単体で見たらこの作品がずば抜けて好み。人間とは何かという問いに部分的ながら面白い角度で答えているのも良いし、何より誰でも歳をとりいつかは死んでいくことに対して、救いを与えようとする話でもあるので、暖かさというか、科学が人に与えられるもののポジティブな視点も良いのです。

 飛浩隆「ラギッド・ガール」(『ぼくの、マシン ゼロ年代日本SFベスト集成〈S〉』所収) アンソロジーから。SF的な理屈付け、感傷性、印象に残るキャラクター。

 瀬名秀明きみに読む物語」(『日本SF短篇50 V:日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー』所収) こちらもアンソロジーから。人の「理解」を取り扱う繊細さと誠実さが心にくる。

 福澤徹三「まちがった」(『忌談 終』所収) 知らない怖さ・不気味さがグッド。

 ウィリアム・トレヴァー「雨上がり」(『聖母の贈り物』所収) 家族との思い出を振り返り託すような情景描写が素晴らしい。思い出の地、もともとバカンスに来る予定で無かった土地、よく知らなかった場所、いろんな要素が積み重なり、描写され、ただの風景がすごく感情豊かだと思いました。失恋直後なのでちょっと湿っぽいけど、最後はすがすがしい、まさに「雨上がり」な作品でした。

福澤徹三『忌談 終』

 福澤徹三さんの『忌談 終』を読みました。飛行機に乗る機会がありまして、そんなときは角川ホラー文庫の新刊を一冊買うことにしているのです。これは著者の集めた怖い話が35編収められている本。ここ最近読んだ怪談蒐集系の本では一番面白かったかも。以下、お話ごとの一言感想。

「侵入者の痕跡」気のせいとか偶然で済ませられる話ですが、不気味な感じが残ります。

「血縁」そこまで身内を怖がるかなーと思ったけれど、身内だからこそ、もありますかね。

「入れ喰い」釣った魚を開いてそんなもんが出てきたら気持ち悪いですけど、特に不思議でもなんでもない話。

「ハンドキャリー」えぐい話。

「虫二題」大した話ではない。でも回転ずしで寄生虫にあたるのは嫌ですね。

「夢のなかでの会話」夢には神秘的なところがあるので、こういう話は好み。

「妊婦の消息」気味の悪い話。あるいは気色の悪い話。

「来客のメモ」メモに書かれた名前がわかればもっと面白かったんですけど。

「霊感のある女」ストレートな幽霊譚。

「レザージャケット」気にしたら負け、とはいえどうにも気持ちの悪いことはあるという話。安かろう悪かろうですね。

「泥音」ありきたり、というかどっかのホラードラマで見たような話。映像ではインパクトありそうです。

「早朝の違和感」不安の種感。

「心霊写真」写真屋さんすごい。

「百円ショップ」バックヤードに出る幽霊。ありきたりな話という気もします。

「窓ではない窓」不可解で不気味。面白い。

「映画館の声」変な現象の起きる映画館。これもホラーとしては地味。

「半径100メートル」不気味な事件に誘発されたかのように治安が悪くなるという話。面白い。

「縊死体のポケット」不思議な話。木の下にこぼしていたスナック菓子がポケットから出てくるというのはマジックめいていて面白い。

「十二羽」誰かのいたずらかもしれない。それでも実際に目にすると恐ろしいかも。

「輪郭」感覚に生じた異変の話。面白い。

シンクロニシティ」前の話と関連。いわくがあるというだけの話で、あまり怖くない感じ。

「まちがった」一体なにを間違ったのか不気味です。面白い。

「瓜二つの女」クラブの人たちと口裏合わせていたんでしょうか?

「三兄弟の家」人形の毛を躊躇なく剃るOくんも不気味です。

「奇縁」不思議な縁についての話。喜ばしいのかどうなのか。

「猫バス」ひどいものだが笑える話。

「ルームメイト」浮気して刃物沙汰。人間が怖いという話。

「茶色い絨毯」ゴキブリの話。恐ろしい……。

「同居人」不思議といえば不思議ですが、記憶違いの可能性も。

「夫の悪癖」変な生き物が出てくる話。面白い。

ヒトカラの女」いわゆるメンヘラの話。恐ろしい。

「自殺の理由」自分が不可解な自殺を遂げようとしているのに気付く、という話。面白い。

「古井戸」不気味な話。見つかったものは何だったのか。面白い。

「静かなアパート」知らなかった……。

「戦友」誰かに引きずられたが、それを分隊長だと勘違いしていたのかも。でも良い話。

 

アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』

 2010年に早川書房クリスティー文庫で出版された新訳版『そして誰もいなくなった』(青木久恵訳)を読みました。

 有名なタイトルで、いつか読もうと思いつつも今まで読んでいなかった作品。20年以上生きていて読んでいなかったのが不思議なくらいですね。どこでネタを知ったのかもはや覚えていませんが、うっすらネタ自体は知っていたので驚きという点ではいささか物足りなさを感じました(著者に申し訳ない)。しかしそのプロットの巧みさには読者を惹きつけるものがあると思います。

 犯人が誰かなのか知らなかったし、犯人の用いたトリックも細かい部分については知らなかったので、誰が犯人なのか、推理というほど大げさなものではありませんが予想ぐらいはしながら読んでいました。集められた関係者に医者がいるので、なるほど、医者が死んだ後にまだ生きているやつを疑えばいいと単純に考えるなど。しかも『アクロイド殺し』を先に読んでいたので、心理描写の記述では犯人と被害者の区別がしにくいよう上手く書かれているのだろうと見当はつきました。まあ見当がついてもまともに考えはしなかったので犯人の予想になんら寄与してはいませんが。頭がつぶされた死体などじろじろと見たくはないだろうと思い、その死は偽装なのではないかと疑ったりしていました。そして騙されてしまいました。

 検証はしてませんが、これ、犯人を特定するのは難しいのではと感じています。しかしそのもやもや感以上に楽しめたとはっきり言えるでしょう。解説で赤川次郎が述べているとおり、一晩で読み切れる長さであるところも素晴らしいし、その盛り上げ方、どんどん人が死んでいき、人数が少なくなればなるほど加速していくサスペンス性、次はどうなると待ち構えている読者を飽きさせない展開は素晴らしいの一言。

 しかし個人的には、初めて読んだクリスティーの作品『アクロイド殺し』の驚きを超えることはありませんでした。いやほんと何も知らずに読んでびっくりしたんですよ。

 

Lavie Tidhar「What Do We Talk About When We Talk About Z――」

 忙しさにかまけてブログの存在を忘れていましたが、忘れていても問題ないといえば問題はありませんね。それに忙しくても本を読むくらいの余裕はありました。もしかしたら本を読むのに時間を取りすぎているのかもしれませんけれど。

 

“It is raining. It seems to have been raining more and more, and the sky is black with streaks of startling blue. The grave had been dug and the coffin lowered and now it was being covered agin, with earth.”(Lavie Tidhar、「What Do We Talk About When We Talk About Z――」より)

 『THE MAMMOTH BOOK OF BEST NEW HORROR 25』より、ラヴィ・ティドハー(Lavie Tidhar)の短篇「What Do We Talk About When We Talk About Z――」を読みました。上の引用はなんだか暗~い雰囲気が伝わればよいかなと思いまして。

 なぜこの作品を読んだのかというと、まず短くてすぐ読み終わるだろうと思ったからで、全部で4ページほどの短篇となっています。word数で言えば1500いかないくらいの短さです。実際に数えてはいませんが。なので私自身のつたない英語力でもすぐに読み終わると思って手を出しました。『完璧な夏の日』が最近刊行されましたし、レイモンド・カーヴァーの作品「愛について語るときに我々の語ること」が劇中劇として出てくる映画「バードマン」がアカデミー賞受賞したということもありなんとなく。

 著者のラヴィ・ティドハーは長編「Osama」(2011)で世界幻想文学大賞を受賞……とかそうした経歴は東京創元社のウェブサイトで紹介されているので、興味のある人はそちらをどうぞ。『完璧な夏の日』もかなり面白そうです(まだ読んでいないのですが)。

 今回読んだ短篇は、題名から分かるかもしれませんが、レイモンド・カーヴァーの作品がモチーフ(あるいはそのパロディ?)となっています。初出は雑誌「Black Static」の32号。著者の言葉を引用すると、“I wanted to write a zombie story without any zombies”とか、あとは“I like the idea of Raymond Carver being caught in the middle of a zombie outbreak.”だとか。確かに、本文中に”zombie”は出てきませんでした。

 内容をあんまり書くとアレですが、空白を置いて、四つの状況が描かれています。描写は三人称だったり一人称だったり。この切り替えは一行のブランク(空白)を置いて行われています。まず最初は”彼”と”彼女”。レノアという名前が出てきます。次は私と君。IとYouとしか書かれておらず、名前も――さらに言えば性別も確かではありません。コーヒーを飲んでいる二人が描かれますが――しかしこれは回想であるように思えます。その次は子供の部屋の中を眺めているSheが焦点人物となった三人称。彼女が、”やつら”が現れた世界で生きていくために子供が残したメモ、まだ幸せだったころの写真を見る様子が描かれます。そして、最後は(最初のように)”彼”と”彼女”。しかし、これが最初の”彼”、そして”彼女”と同一人物であるかどうかはわかりません。ただ同一人物であると考えたいような気もします。

 登場人物は主に、彼、彼女、と代名詞で呼ばれるだけで、場面が切り替わると同一人物であるかどうかもはっきりしません(おそらく別人なのでしょう)。しかし明確な名前も出ます。まず冒頭の「レノア」。そして猫の「モーツァルト」。出てくる名前といったらこれぐらいのものです。ちなみに、レノアLenoreと検索してみると、アンデッドの少女を主人公としたアニメがヒットします。これは元々はエドガー・アラン・ポーの詩「レノア」をモチーフにしているようです。また、エドガー・アラン・ポーの詩、有名な「大鴉」の中で青年が嘆いているのはレノアという少女の死です。そう考えると、この作品の最後、“彼”が問う「僕はもう一度君に会える?」“Will I see you again?”は「大鴉」の最後、天国で恋人に再会できるかという問いと重なっているように思えたりしなくもないですが、見当違いな感じもしますね。

 レイモンド・カーヴァーについては私自身よく知らないので、ティドハーの狙いがどのようなものなのかよく分からず、消化不良という感じでした。形式に、あるいは内容にその狙いが現れているのか、カーヴァーに詳しい人に読んだ感想を聞いてみたいところです。