物語を狩る種族(The Story Hunters)

読んだ本の感想を書いているブログです

ジーン・ウルフ「ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー」

 今日は扶桑社から刊行されたアンソロジー『魔法の猫』の「ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー」(ジーン・ウルフ著、柳下毅一郎訳)です。『魔法の猫』はそのタイトルどおり、「猫」がテーマの翻訳もののアンソロジー。

 この短編の著者ジーン・ウルフは最高のSF・ファンタジー作家のひとりと言われ、技巧的な短編が評価されています。そのため書かれたままの物語だけでなく象徴レベルの物語を精緻に根気強く読み解かなければ物語の意味するところが分からない、というお話もありますがそれがウルフの良いところで深く物語に踏み込んでいく喜びに出会えます。とはいえ今回読んだ短編はそれほど特殊なものではないように思えます。

 

[あらすじ]

 合衆国の全市民が一定の収入を保証されている未来、ソーニャは定額収入だけでかろうじてつつましく暮らしていた。まだクレーン・ヴェッスルマン*1がブリッジ仲間の友人の所へたびたび外出していたころ、ブリッジの四人目のパートナーとしてソーニャが呼ばれる。

 その後、互いに気になりつつも、ブリッジ仲間を失ったクレーン・ヴェッスルマンは引きこもり、ソーニャもその状況を受け入れる。最初のゲームから四ヶ月後、彼女はクレーン・ヴェッスルマンから自宅でのディナーに誘われ、表札にクレーン・ヴェッスルマンのほかに「キティー」という名前を見つける。ベルを鳴らし、出てきたのは……。

 

[感想]                                                 

 まず読んで気になったのが冒頭の文章。

 ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンの奇妙な関係のことは、一種の引き延ばされた求愛、金持ちの青年による貧しい娘への求愛と説明するのがたぶんいちばん近いだろう。二人があんな年でなかったならだが。もちろん今は二人とも年寄りではない。今はソーニャはあなたくらいの年だし、クレーン・ヴェッスルマンはいくつか年上だ。だが、二人は知りあっていない。もし若いうちに知り合っていれば、そうソーニャも幾度も思ったが、ものごとはあんな風に運ばなかったかもしれない。

 最初この文章を読んだときはよく言っている意味が分からず混乱しましたが、福祉の整った社会的な状況やヘリコプターがバスのような交通手段として使われている描写に至って、ああこの文章は「この話は何十年か先の未来の話である」という意味なんだ、と気付きました。今というのは、読者が文章を読んでいる(もしくは著者が文章を書いた)現在のことであって、それは作中の舞台となる時代よりも過去のことであると。なかなかひねくれた表現です。

 上のあらすじではあまり突っ込んだことを書いていませんが、クレーン・ヴェッスルマンはどうやら遺伝子操作によって人間のような体型になっている猫を飼っているようです。想像するとなんとも不気味ですが、そういう生物を飼うだけの財力がありながら老いて誰とも交流せず、奇妙なペットをそばに置くクレーン・ヴェッスルマンは孤独と悲しさを感じさせます。しかしディナーに招き、キティーに会わせたことから、ソーニャには少なからぬ好意を抱いているのでしょう。私も老いたときには孤立しているかもしれません。クレーン・ヴェッスルマンの持つ愛と孤独が胸に響きました。

 ところで、クレーン・ヴェッスルマンはキティーについて“わしはキティーと呼んでいるが、生殖質はテナガザルかも、犬かもしれない”と言っています。生殖質とは何なんかわかりませんでした。なのでネットで調べました。ウルフウィキ(Wolfewiki)によれば、生殖質とはDNAの発見以降は過去のものとなったが、かつて遺伝を担う細胞の成分として理論的に考えられていたものだとか。

http://www.wolfewiki.com/pmwiki/pmwiki.php?n=Stories.SonyaCraneWesslemanAndKittee

 他にウィキのコメントで興味深いのは、動物を人間に近づけていく遺伝子工学H.G.ウェルズの『モロー博士の島』を彷彿とさせる、という指摘です。ウルフはオマージュとして「デス博士の島その他の物語」を書いていますし、『モロー博士の島』に対する偏愛ぶりがうかがえますね。

 

*1:作中では「ヴェッスルマン」と書かれることはなく、常に「クレーン・ヴェッスルマン」とフルネームで書かれています。名前に何か意味があるのでしょうか?