物語を狩る種族(The Story Hunters)

読んだ本の感想を書いているブログです

Lavie Tidhar「What Do We Talk About When We Talk About Z――」

 忙しさにかまけてブログの存在を忘れていましたが、忘れていても問題ないといえば問題はありませんね。それに忙しくても本を読むくらいの余裕はありました。もしかしたら本を読むのに時間を取りすぎているのかもしれませんけれど。

 

“It is raining. It seems to have been raining more and more, and the sky is black with streaks of startling blue. The grave had been dug and the coffin lowered and now it was being covered agin, with earth.”(Lavie Tidhar、「What Do We Talk About When We Talk About Z――」より)

 『THE MAMMOTH BOOK OF BEST NEW HORROR 25』より、ラヴィ・ティドハー(Lavie Tidhar)の短篇「What Do We Talk About When We Talk About Z――」を読みました。上の引用はなんだか暗~い雰囲気が伝わればよいかなと思いまして。

 なぜこの作品を読んだのかというと、まず短くてすぐ読み終わるだろうと思ったからで、全部で4ページほどの短篇となっています。word数で言えば1500いかないくらいの短さです。実際に数えてはいませんが。なので私自身のつたない英語力でもすぐに読み終わると思って手を出しました。『完璧な夏の日』が最近刊行されましたし、レイモンド・カーヴァーの作品「愛について語るときに我々の語ること」が劇中劇として出てくる映画「バードマン」がアカデミー賞受賞したということもありなんとなく。

 著者のラヴィ・ティドハーは長編「Osama」(2011)で世界幻想文学大賞を受賞……とかそうした経歴は東京創元社のウェブサイトで紹介されているので、興味のある人はそちらをどうぞ。『完璧な夏の日』もかなり面白そうです(まだ読んでいないのですが)。

 今回読んだ短篇は、題名から分かるかもしれませんが、レイモンド・カーヴァーの作品がモチーフ(あるいはそのパロディ?)となっています。初出は雑誌「Black Static」の32号。著者の言葉を引用すると、“I wanted to write a zombie story without any zombies”とか、あとは“I like the idea of Raymond Carver being caught in the middle of a zombie outbreak.”だとか。確かに、本文中に”zombie”は出てきませんでした。

 内容をあんまり書くとアレですが、空白を置いて、四つの状況が描かれています。描写は三人称だったり一人称だったり。この切り替えは一行のブランク(空白)を置いて行われています。まず最初は”彼”と”彼女”。レノアという名前が出てきます。次は私と君。IとYouとしか書かれておらず、名前も――さらに言えば性別も確かではありません。コーヒーを飲んでいる二人が描かれますが――しかしこれは回想であるように思えます。その次は子供の部屋の中を眺めているSheが焦点人物となった三人称。彼女が、”やつら”が現れた世界で生きていくために子供が残したメモ、まだ幸せだったころの写真を見る様子が描かれます。そして、最後は(最初のように)”彼”と”彼女”。しかし、これが最初の”彼”、そして”彼女”と同一人物であるかどうかはわかりません。ただ同一人物であると考えたいような気もします。

 登場人物は主に、彼、彼女、と代名詞で呼ばれるだけで、場面が切り替わると同一人物であるかどうかもはっきりしません(おそらく別人なのでしょう)。しかし明確な名前も出ます。まず冒頭の「レノア」。そして猫の「モーツァルト」。出てくる名前といったらこれぐらいのものです。ちなみに、レノアLenoreと検索してみると、アンデッドの少女を主人公としたアニメがヒットします。これは元々はエドガー・アラン・ポーの詩「レノア」をモチーフにしているようです。また、エドガー・アラン・ポーの詩、有名な「大鴉」の中で青年が嘆いているのはレノアという少女の死です。そう考えると、この作品の最後、“彼”が問う「僕はもう一度君に会える?」“Will I see you again?”は「大鴉」の最後、天国で恋人に再会できるかという問いと重なっているように思えたりしなくもないですが、見当違いな感じもしますね。

 レイモンド・カーヴァーについては私自身よく知らないので、ティドハーの狙いがどのようなものなのかよく分からず、消化不良という感じでした。形式に、あるいは内容にその狙いが現れているのか、カーヴァーに詳しい人に読んだ感想を聞いてみたいところです。

 

Gene Wolfe「The Woman Who Went Out」

 研究のために出かけたところで『F&SF 1985 June』*1を見つけ、せっかくなのでジーン・ウルフの短篇「The Woman Who Went Out」を読みました。まあ英語力に難ありなので、電子辞書片手に読みました。全部で5ページぐらいの分量で、それほど難しい単語も無かったように思うのでさくさく読み進められたといえば読み進められたほうでした。古い本なので紙が真っ黄色になっていましたね。

 The Internet Speculative Fiction DatabaseによるとLatro(Soldier)シリーズの一篇らしい*2のですが、そのシリーズの小説を読んだことが無いので正しいのかどうか分かりません。どこかハヤカワでも国書刊行会でもよいのでLatroシリーズ翻訳していただければいいのですが……。しかしまだThe Wizard Knightも出てないので、英語を勉強して原書に挑戦したほうが早いかもしれません*3。いつになるのかはわかりませんけれど。

 さて、このお話の舞台は古代ギリシアアテネです*4。そこで結婚しているのに夫からまったく何も買ってもらえないどころか少しばかりのお金すら与えられない不幸な妻が、メイドの協力を得て、夫にばれないよう夜遊びに出かける話です(と言っても間違いではないはず)。妻とメイドは、妻が寝室からいなくなってもばれないように、土を湿らせて作った泥人形を代わりに置いて行くのです。ですがお金がないのである問題が生じ、泥人形を使うのをやめることになりました。一方、妻が泥人形を置いていたあいだ、寝床を共にしていた夫は「妻を抱いてもまるで粘土の人形だ」と嘆きます。そんなときにライバルからあるまじないを教えてもらい、今度は夫が夜な夜な寝室を抜け出すようになるのですが……。

 というのがだいたい途中までのあらすじ。オチはホラーな感じでした。というか、土をこねて作った人形を使うあたりからオカルトめいてはいますが。リンゴの木が物語の中で重要な役割を果たすのですが、なぜリンゴの木なのか気になるところです。そしてなぜあんなラストになったのか。物語の舞台設定もからんでいそうなので、ヘロドトスの『歴史』なんかも読んでみたいですね。まあ読んだからといって何かわかるかどうかもはっきりしませんけれど、一読した後に疑問が残るお話でした。どう解釈するか、まだ何かありそうだな、と深読みしてしまいます。いくつか固有名詞が出てくるのでそこが手がかりに……なるのかどうか。あるいはシリーズの長編と関係しているのかも。

 

 

*1:http://www.isfdb.org/cgi-bin/pl.cgi?61235

*2:Latro - Series Bibliography

*3:実は「新しい太陽の書」も『ピース』も最近出た『ジーン・ウルフの記念日の本』もまだ読んでいないので、先に読むとしたらそっちになるでしょう

*4:AreopagusとかBabylonianとか出てくるので

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」

 レイモンド・カーヴァーの短篇集『愛について語るときに我々の語ること』(村上春樹訳)より、表題作を読みました。最近、アカデミー賞受賞で話題の「バードマン」という映画にも劇中劇として出てきているお話です。それにラヴィ・ティドハーの短篇を読んだこともモチベーションのひとつ。

 

[あらすじ]

 ある日、まだ陽も高い頃、ニックは妻のローラ、友人のメルとその妻テリの四人で、お酒片手にテーブルを囲み、会話を楽しんでいる。その話題はいつのまにか、「愛」について、となっていた。テリは、メルと一緒になる前に暮らしていた男、エドについて話し始める。エドは暴力を働きながら、テリに対して愛してると言い続けていた。メルは、そんなものは愛ではないと主張するが、テリは、彼なりの愛だったと言う。会話を続けていく四人。ニックと私は愛がどういうものか知っているわ、とローラが言う。一緒になって一年半の二人に、メルは本当の愛、その好例を示そうと、ある老夫婦の話を語り始める。「我々は愛についていったい何を知っているだろうか? 僕らはみんな愛の初心者みたいに見える……」

 

[感想]

 この物語の中心は、ある部屋で行われる会話であり、何だか演劇にしやすそうです。それはともかく、肝心のその会話の内容はずばりタイトルどおり、「愛」について。愛にはいろんな種類があるように見えるし、そうでないようにも見える。ここで語られている愛とは、エドからテリへの愛、あるいはテリからエドへの愛、メルとテリとの愛、ニックとローラとの愛、事故にあった老夫婦の愛、メルとその前妻マジョリーとの愛、彼らそれぞれが互いに向けている愛。みな同じ「愛」について語っているが、しかしそれはそれぞれの関係性の中で異なったものとなっています。あるものは暴力的な衝動をはらみ、あるものは相互の信頼感を生み出し、あるものは憎しみへ変わり、そしてあるものは変わらない……。

 メル・マギニスの言葉、“僕らは愛の初心者みたいに見える”は、私たちがまだ「愛」そのものについて多くのことを知っていない、あるいはそれに習熟していない、ということを示しており、全貌の見えない「愛とは何か?」という問いを読者に投げかけています。

 ニックとローラの関係は好ましいものに思える反面、メルとその前妻マジョリーの場合のように、時が経ってその愛が憎しみをはらんだものへと変わる、そんな可能性を持っています。それでも、たとえその愛がとても短いものであるとしても、人はそれを追求せずにはいられない。多くの人が追い求めているもの、時にはおぼろげで、ある時には確かなものを抱いていると感じさせるようなもの。シンプルな会話劇によって愛とは何かを問う、もっと歳を経てから読み返せばより味わい深くなるように思わせる短篇でした。

ジョン・D・マクドナルド「罠に落ちた男」

 引き続きエラリイ・クイーン編『クイーンズ・コレクション1』から、ジョン・D・マクドナルド「罠に落ちた男」(甲賀美智子訳)を読みました。ページ数にして17ページ、短くてすぐに読み終わる文章量です。

 今までに著作を読んだことは無いのでよく知りませんが、巻末の作家紹介によると、作者のジョン・D・マクドナルドは1916年にペンシルヴェニア州に生まれ、第二次世界大戦後にパルプマガジンでミステリ、冒険小説、SF、ファンタジーなど様々なジャンルの短篇を書いており、「トラヴィス・マッギー」シリーズで人気を博したとか。六十二年にはアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長を務めるなど、アメリカの推理小説の発展に貢献した巨匠のようです。Amazonで検索してみると、邦訳された単独著書で一番新しいものは2007年に刊行された「トラヴィス・マッギー」シリーズの『薄灰色に汚れた罪 (海外ミステリGem Collection)』。このシリーズが日本でどれくらい紹介されているのかは知りませんが、その一作目が映画化されるという話もあり(http://www.cinematoday.jp/page/N0064704)、本国での根強い人気がうかがえます。あ、今回読んだ短篇はシリーズものではありません。念のため。

 

[あらすじ]

 トラック輸送会社の共同経営者であるジョウ・コンロイは買物の帰り、金髪の二十代ぐらいの男レイに銃で脅されてサンダウン・モーテルまで運転させられる。銃を突きつけられたまま、コンロイがモーテルの一室を開けると、レイの仲間の男女、ディズとローラリイがいた。彼らは、不在を怪しまれないようコンロイの妻と同僚に電話をかけさせた後、コンロイをテープで拘束する。どうやら彼らは現金強奪計画のために車を必要としていただけのようだが……。

 

[感想]

 エラリイ・クイーンが「クールで歯切れのよい犯罪小説」と評するように、短くすっきりとまとまったお話となっています。何の変哲もない市民が犯罪に巻き込まれて……というプロットは現実味がある一方、驚きは少なく、クイーンがなぜこの話を選んだのか正直言うとよく分かりません。なにか琴線に触れるものがあったのでしょうか。ただ、物語の結末部分おけるコンロイの言葉には自虐的な響きがあり、なんというか、不思議な余韻を感じさせて終わるところは良かったです。

 

レックス・スタウト「殺人鬼はどの子?」

 エラリイ・クイーン編『クイーンズ・コレクション1』より、レックス・スタウト「殺人鬼はどの子?」(山本やよい訳)を読みました。

 『クイーンズ・コレクション1』はEQMM(エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン)の年刊アンソロジー80年版『ELLERY QUEEN’S VEILS OF MYSTERY』の邦訳です。21の中短篇が収録されています*1

 今回読んだ作品は、アメリカの本格ミステリ黄金期に活躍した(らしい)*2レックス・スタウトの生み出した安楽椅子探偵ネロ・ウルフが登場する90ページほどの中篇です。巻末の作家紹介にあるように、「“ウルフ一家”が総登場し、謎解きのみならず、ウルフ家の雰囲気を存分に味わえる佳品」でした。

 

[あらすじ]

 探偵ネロ・ウルフの家に一人の女性が訪ねてくる。ウルフが日課となっている蘭の世話をしているので、助手のアーチー・グッドウィンは玄関へその女性を出迎えに行った。女性の名前はバーサ・アーロンといい、法律事務所の所長の秘書を務めている。彼女が言うには、ある訴訟事件に関する相手方の依頼人と、こちらの事務所の共同経営者の一人が会っているところを目撃したという。その共同経営者を問いただしてみたら様子がおかしかったので、すぐさまウルフに調査を依頼しにきたのだ。話を聞いたグッドウィンはそれがニュースになっているある離婚問題に関する事件であることに気付く。ウルフは離婚問題に関わるものは相手にしないと決めている。二階へ呼びに行ったものの、やはりウルフは依頼を断ると言った。意気消沈し、一階へ降りたグッドウィンを出迎えたのは、ウルフが机の上に置いていたネクタイ、それで首を絞められたバーサ・アーロンの死体だった……。

 

[感想]

 いやあ、ネロ・ウルフさんは安楽椅子探偵という肩書きに恥じない働きぶりでした。というわけでなかなか面白い作品でした。

 まずキャラが立っています。ネロ・ウルフはお金を持ってて探偵として名声もあり、かなり悠々自適な生活を送っており、その自由気ままさが、わがままな感じにも見えるのですが、周囲の人物、助手や使用人の態度や言動からかなり尊敬されていることが分かります。とはいえ今回のお話では、汚れたからってネクタイを机の上に放っておいてるのはどうなの、みたいなことを助手や使用人から言われていますし、そのネクタイが殺人に使用されたのですから、まあウルフの面目丸つぶれ。しかしこれがウルフによる捜査の強い動機になって、物語に張りが出ていて上手いなと感じました。

 あとグッドウィンがかなり優秀な助手に見えました。いや見えたというか、実際優秀でした。安楽椅子探偵としては、なるべく動かずに情報収集することが肝要ですが、グッドウィンの活躍には目を見張るものがあります。

 そして肝心の事件。フックが効いています。まさか探偵を呼びに行く間に依頼人が殺されるとは! 自分の家で起きた殺人にショックを受けたウルフは、警察の捜査など知るか、怒りとともに犯人を探します。探すと言ってもウルフ本人は家から出ませんが。事件現場に居合わせたウルフたちの元に、容疑者たちからやってきてくれるので手間は省けるのです。

 ウルフたちの努力の後、「名探偵、皆を集めてさてと言い」とはちょっと違うのですが、事件の関係者*3がウルフの家に集まる最後の場面は謎解きの滑らかさ、犯人の追い詰め方と見どころがありました。ウルフのささやかな復讐も決まり、名誉挽回といったところ。

 目を見張るようなトリックが使われているわけではありませんが、癖のある登場人物たちが動き回るミステリーは読んでいて面白かったです。

 

*1:ちなみに目次では20の作品しかないように見えますが、その内の一つは連作短篇で、実質21の作品が収録されています

*2:「らしい」というのは私自身がレックス・スタウトの作品を読んだことがなく、よく知らないので……

*3:ただし警察は除く。犯人に復讐したいので、ウルフは犯人が分かっていても警察にはまず知らせません